なぜ、文章を読むのか。
答えは人それぞれでしょう。
自分なりに答えを見つけるしかありません。
今回の記事で書く内容は、その答えの一部です。
「読む目的は、客観的事実を知ることだけではない」
情報収集は目的のひとつに過ぎない
「合理的に読む」ということを追究すると、情報収集のために「読む」ことを重視していくことになります。
「情報」の定義は幅広いですが、この場合に価値をもつのは客観的事実です。
書き手の主観よりも、書かれていることが正しいかどうか、客観的な根拠を伴っているかが大切になります。
知を追究し、揺るぎない事実を知ろうとすることは、なにかを学ぶ上で大切な姿勢です。
しかし、客観的事実を知ること、言い換えれば情報収集とは、読む目的のひとつに過ぎないと考えます。
主観の価値
「客観的事実こそが全て」となれば、世の中のフィクションやエッセイには価値がないということになってしまいますが、そのように考える方は少ないでしょう。
主観で構成される文章、客観的な根拠を伴わない文章にも魅力を感じ、読みたいと思うことはあるはずです。
客観的事実と同様に、主観的な主張にも価値があります。
なぜ、小説やエッセイを読みたいと思うのでしょうか?
この答えも人それぞれだとは思いますが、私の場合は、主観の世界を見たいからです。
多様な人の考えにふれられること。
文章を通じて心の動きを追体験できること。
そして、それらを通じて新たな物事の捉え方や考え方を身につけられること。
「客観的な事実を知ること」とは異なる学びが得られるのが、主観で書かれた文章の魅力です。
「知は力なり」の「知」は幅広い
「知は力なり」という言葉がありますが、その「知」のなかには、上で書いたような学びも含まれていると思います。
いわば経験知。
「経験」も現実世界での経験に限定されず、人それぞれの頭の中での思考もまた一種の経験です。
「精神世界での経験」と書くとスピリチュアルな響きがありますが、「思考実験の結果」と考えると必ずしも出鱈目なものではないと思えます。
仮にフィクションの小説であっても、論理はあります。
論理が破綻していれば、小説の展開も破綻します。
ということは、優れた小説は一種の思考実験が成功しているといえるのかもしれません。
架空の世界での学びもまた、現実世界を意味づけ解釈する大切なヒントになります。
難しく考えずとも、読んだ後に「元気になった」「ほっとした」といった心の動きがあったとすれば、それは有意義な読書経験といえるでしょう。
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