「一貫性を追求すること」の危うさ — 蛇行思考の肯定

ブログを書いている途中に、ふと手が止まることがあります。
「あれ?これって前に書いた記事と矛盾するんじゃないか?」と考えながら。

主張に一貫性をもつことは大切です。
主張が頻繁に変われば、「あの人は言うことがコロコロ変わる」と思われるかもしれません。

しかし、変わるものは変わるのです。
途中で手が止まったとしても、「その内容について書こうと思った」のは事実です。
それならば、むしろ「あの時はこう思っていたけど、今はこう思うんだ」と素直に主張を変えた方が正直ではないかと思います。

1つの記事のなかでは一貫性を保つことを意識していますが、投稿数が増えてくるにつれて、記事同士の一貫性・整合性を保つ難易度は上がっていきます。

この記事では、思考・主張の一貫性について考えてみたいと思います。

目次

一貫性がなくても良いじゃないか

今回は、「思想・主張に一貫性がなくても良いじゃないか」という立場で考えていきます。

このように、「○○の立場で考える」ということは、思考法として役に立ちます。
なぜならば、思考の土台が確定するからです。

世の中には〇〇主義、□□思想といった様々な立場がありますが、どの立場も絶対的なものではありません。
じっくりと考えたうえで、自分自身が納得できる立場を選んでいくことになります。
「じっくりと考える」のは時間が掛かることであり、場合によっては数年・数十年、あるいは一生掛けても確固とした結論が出ないこともあるかもしれません。

そもそも、思想の多様性ということを考えると、何らかの立場に属するのは難しいことです。

この立場には賛成だが、納得できない部分も残っている。
この立場には反対だが、理解できる部分もある。

そういったスタンスでいるほうが、自分自身にも正直で「誠実」なのもしれません。

イソップ寓話の「卑怯なコウモリ」のように「どっちの味方なんだ!」と問い詰められるかもしれませんが、コウモリは獣か鳥か?という前に「コウモリ」なのです。

有利な方に寝返るというのはズルいですが……

「一貫性がない」という状態は、立場を吟味している過程と捉えられます。
自分が納得できる立場を見つけていくために仮説の検証を繰り返している段階です。

その意味では、「一貫性がない」ことが「説得力に欠ける」とみなされるのは当然のことです。なぜならば、結論が出ていないからです。

しかし、だからといって、仮説の検証を中断するべきではないと思います。
焦って結論を出すことのほうが危険です。

「卑怯なコウモリ」はバッドエンドを迎えたのか?

イソップ寓話では「鳥からも獣からも嫌われ、居場所をなくしたコウモリは、暗い洞窟の中で暮らすようになった」と締め括られています。

しかし、個人的には、「卑怯なコウモリ」はある意味でハッピーエンドを迎えたのではないかと思っています。

コウモリはコウモリらしい「居場所」を見つけることができたのではないか、と。

ビジネス用語でもある「ニッチ」は、生態学の用語でもあります。

ビジネスの世界では競合が少ない「隙間(=ニッチ)」を見つけることは一つの戦略とされていますが、生物にとっても競合や天敵が少ない居場所を見つけていくことは生存戦略です。

ニッチを見つけることができたという点では、「卑怯なコウモリ」も良い結末を迎えたと言えるのかもしれません。

ニッチ niche

生態的地位などと訳す。ある生物が特有の生活形態に応じて占有する生息場所をいうこともあるが,むしろより包括的に,ある生物群集のなかでのその生物の役割,生態学的位置づけを意味することが多い。このような見方の場合には,食物連鎖のうえなどで類似の位置にあれば,異なる種でも異なる生物群集内では同じニッチを占めるものがあることになる。ただし同一群集中では,一つのニッチを占めるのは,ただ一つの種のみとされる。

https://kotobank.jp/word/ニッチ-6926

前言撤回

人は「間違える生き物」です。

歴史を振り返っても、前言撤回はよくあることです。

たとえば、長い間支持されてきた天道説は、地動説へと転換していくことになります。
アリスタルコス、コペルニクス、ヨハネス=ケプラー、ガリレオ=ガリレイ、そしてニュートンと長い論争を経て地動説が受け入れられるに至りました。
地動説の決定打といえる「万有引力の法則」を含むニュートンの学説が公表されたのは17世紀末のこと。

紀元前からはじまる、大いなる前言撤回です。

ガリレオ裁判に代表されるように、地動説を支持する人々を異端扱いしてきたのは人類が反省するべき歴史ですが、「間違えること」「前言撤回」についてはある程度の寛容な姿勢も必要なのかもしれません。

大切なのは「反省」することであり、反省的な「前言撤回」を受け入れることだと思います。
「あの時はこう言っていたじゃないか!」と感情的に拒絶するのではなく、その思考過程を尊重し、意見を変えることを認めていくことです。

そして、意見を変える場合も、無責任に心変わりするのではなく、その理由を明確に示すことが求められるのではないかと思います。

人は変わる。世の中も変わる。
たとえば、信頼できるスマホアプリやWebサービスは、リリース当初からバグが存在しないものではなく、アップデートが継続的に行われているものです。

特にネット接続を必要とするアプリやサービスでは、アップデートは必要不可欠なものです。

IT技術が日進月歩で変容し、人為的であるかどうかに関わらず、日々新たな脆弱性が発見される環境においては、恒久的に完璧なものをつくることよりも、アップデートにより改善を繰り返すことのほうが現実的です。

思想・主張についても同様に、社会環境が常に変動することを踏まえれば、揺らがないものをもつよりも、修正を繰り返すほうが健全な状態を保てるのではないかと思います。

過去の自分に縛られない

世間的・社会的には思想や主張に一貫性をもつことが求められる場面も少なくありません。

そのため、自分自身にもそうした姿勢を求めてしまいがちです。
過去に「言ってしまったこと」「書いてしまったこと」との整合性を保とうとする心理が無意識にも働くものです。
その結果、「文章を書いている途中に手が止まる」という現象が起こるのだと理解します。

しかし、「手を止めずに書き続けてみる」ことも大切なのではないか、と思います。

私は「自分らしく書く」ということを心掛けていますが、この「自分らしさ」は他者だけでなく、過去の自分からも影響を受けます。
過去の自分自身の言動をふまえ、「今の自分」が考えることを綴っていくことになります。

つまり、「自分らしく書く」とは、正確には「今の自分らしく書く」ということです。

過去の自分の言動との矛盾を感じるときは、過去の自分と向き合うときです。

「一貫性をもつ」ことを過度に意識することで、頑固になって間違いを認めない姿勢になるのは避けたいものです。

まとめ

「じっくり考える」とは、「ああでもない、こうでもない」「Aかもしれない、でも、Bかもしれない」という思考を繰り返すことだと思います。

そうやって考えていくと、思考は行ったり来たりを繰り返して蛇行した軌跡を描くことになります。
一見すると、頼りない軌跡にもみえます。

しかし、そうした軌跡を言葉として残していくことには意義があると思います。
自分なりのアップデートの記録です。

もしかすると、蛇行と思いきや、ぐるぐると同じ場所を回り続けているのかもしれませんが、言葉にして残しておかなければそれに気づくことさえできません。

一貫性が揺らぐことを恐れずに、考え続けて書き続けることは、果てしない「自分探し」において必要なことだと思います。

最後まで読んでくださって、ありがとうございました!

*アイキャッチ画像:Christo RasによるPixabayからの画像

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この記事を書いた人

属性にとらわれず、自分らしく生きる道を選びました。

音楽やメイクを嗜みます。

ジェンダーレス志向です。
多様性が認められる世の中になることを願っています。

大学院修士課程修了(社会科学系)

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